人の不幸を喜ぶべし

人の不幸は平気である

「われわれはみんな、他人の不幸を平気で見ていられる程に強い」
ラ・ロッシュフコオ

人間の根本的なことを表していると思います。
健康的な人間とは本質的に不道徳な人間なのであります。

同窓会で学生時代の友人Aが離婚したと聞いた。
かわいいと学校でも評判で自分も憧れていたBさんが嫁さんだ。
何だかちょっとスカッとしている。
そこで「いやーそうか、それで原因は?」と目をキラキラさせて聞く。
会社の後輩の女の子に手を出して浮気がばれたということらしい。
「怖いなぁ~気を付けなあ」と言いながら思わずニタニタしてしまう。
さらに、嫁が切れて包丁で刺されて入院しているという。
「気の毒に・・」とつぶやきつつ、ウキウキしている自分がいる。

自分が傷つくようなことは微塵もなく、むしろ元気になっていたりする。
これが自分のことだと大変だが、他人のことならへっちゃらなのである。
人間は99%自分のことしか考えていない査証である。

自分事になると平気ではない

他人の不幸でも自分の境遇に当てはまったりすると一変、平気ではなくなる。
親友のことなら喜んでいられないし、子供の虐待などは全く他人であっても心を乱される。
そこには自分に深く関わっていて他人事ではないという心理が働いてる。
離婚で苦しんだ人には離婚の話は笑えなかったりする。

ある意味、人の不幸で喜べるのは関係が薄いか、自分に同じ傷がない場合なのだと思う。

けれど、関係が薄いとかだけで人の不幸を喜ぶのは罪悪感がある。
では、なぜ「人の不幸を喜ぶべし」なのか。

人の不幸を喜ばないとストレスで死んでしまう

身近な人はともかく、政治家や芸能人、資産家が不幸な目に合うと、そう悪い気分ではない・・

それを「人の不幸を喜ぶような人間はダメだ」なんて思って、そう思うまい、そう思うまいとしていたら、正直しんどいわけです。

だって、人間の本質は
「われわれはみんな、他人の不幸を平気で見ていられる程に強い」
のですから。

それを無理やり抑え込むとストレスで死んでしまいます。

われわれが精神的健康をいかにして養っているかというと半分ぐらいが「他人の不幸」だったりするわけです。

だからと言って積極的に「他人の不幸を喜べ」というわけではありません、「他人の不幸を喜ぶ」自分を許してあげる。
元来、人間は自分のことしか考えておらず、人の不幸を喜ぶ生き物だと思っていれば、色々楽に生きられます。