人は差別するもの、人との比較で生きているから

自分にも差別意識があると思って生きる

南青山というところで児童相談所建設に反対する住民がいてニュースになっています。
街のブランド価値が下がるとかで一部の住民が反対しているとか。
子供のための施設に反対するなど何事か。
テレビなどではそんな論調が目立ちます。

オセロの松嶋が反対派に賛同するようなことを言って叩かれているようです。

まあ、この児童相談所の建設有無についてはそこの住民が決めることなんで、どうこう言うことはしません。

ただ、何て言うか、じゃあ自分はそんな差別的なことや非人道的なことは考えていないのか?

普通に考えています。

児童相談所は反対しないですが、原発やごみ処理場、火葬場、刑務所だったら反対するでしょう。
けれど、これらってどこかの誰かが負担しているわけです。
対価をもらっているかもしれませんが、それでも引き受けてくれているわけです。

原発とかは誰でも嫌でしょう、では例えば新興宗教の建物はどうか?
信者はうれしい、興味ない人はどうでもいい、嫌悪感のある人には嫌です。
こうなると印象・・というか感情です。

感情って「人」に働きます。
児童相談所が有名人で資産家で仁徳ある人がプロデュースしていたら、反応はどうでしょう。
街のブランドどうこう言う人ならコロッと変わるかもしれません。

誰がやっているか、誰が言ってくるかで変わってくるところも大きいと思います。

気付かず差別している

テレビのコメンテーターとかは裕福な街と貧乏な街を差別するな。
みたいに言いながら裕福な街に住みます。
貧乏な街には住みません。
見下しているから。

正社員は非正規を見下します。
大企業は中小企業を見下します。
雇う人間は雇われる人間を見下します。
(そうじゃないところも、もちろんありますが)

ちょっと自分のことを考えてみましょう。
中国人は下品と顔をしかめたり、
ニートはダメ人間だと憐れんだり、
何かしら差別意識ってあると思うんです。

けど、そんなものは無いかのように言っている人が気持ちが悪い。
人間は「人」に対して比較します。
腹が立つのも「人」のせいです。

電車が災害で遅れても、災害や電車には怒りません。
そこの「人」に怒ります。

法律で決まったことを言っても、法律ではなく人に怒りを感じます。

誰も世の中皆が幸せになって欲しいなんて思っていません。
幸せになってほしくない人もいるし、そもそも自分が幸せになることしか考えていません。

けれど、自分が幸せなら、他の人も幸せにしたいと思えます。

自分が幸せと不幸の狭間を行き来しているから、人間は矛盾を多く抱えるのかもしれません。


差別を受けると理解する

差別をある程度してしまうのは仕方がないとしても、減らすことは出来ます。
それは自分が差別を受けること、嫌な目にあうこと、理不尽な目にあうこと。

会社とかで「こいつは使えない」とか言う人がいます。
数年後、状況が変わり自分が使えない人間になった時に、そういうこと言う人間って最低だと思います。
でも、今まで散々人に言ってきたことは忘れています。

「失言」に対して責め立てる人は自分が「失言」してしまった時、誤解だ、そんなつもりじゃなかったのに何でそんなに責められないといけないのかと苦しみます。

そう、いつでも立場なんて一瞬で変わってしまうということを覚えておかないと大変なことになります。

やったほうは忘れていますが、やられた方は一生明確に覚えています。

無論、人間関係たるものは全て円滑にいかないでしょうし、ある時は恨みも買うでしょう。
それでも理不尽すぎることは控えるべきです。
そして深く寛容になるべきです。

マナーの悪い人にはめちゃくちゃ腹は立つけれど、自分もやっているかもしれない。
あの人たちが自分の代わりにマナーの悪い姿を見せてくれているんだ。
ぐらいに思って、心穏やかに生きることが肝要かと思います。

自分にも差別意識があると思って生きる

もちろん、差別何てあまりいいもんじゃないと思います。
けれど、そういう意識って少なからずあると思っておくことが、結果的に差別をなくすんだと思います。
そして、自分も差別される側にまわるかもしれないと思って生きていくことです。

ゾンビ心理学的には「ゾンビを差別する人間もいつかはゾンビになる」わけです。
じゃあ、ゾンビにやさしくしようと思えるでしょう?
やさしくしてもゾンビは容赦なく襲ってきますが・・